冬から春への季節の移り変わり。
風が緩やかにその向きを変えます。
ある日を境に、景色が一変するわけではありません。
ただ、冷たさの中にわずかな柔らかさが混じり、
音や匂いが、ほんの少し遠くまで届くようになります。
知らないうちに、呼吸の深さや歩く速さが、
冬とは違っていることに気づきます。
鳥の囀り、花の匂い、木々の枝先に宿るかすかな気配。
目に見える変化よりも先に、
耳や鼻、身体の感覚のほうが、季節の移ろいを感じる。
春はいつも、そんなふうに始まります。
音楽の中に感じる春も、同じだと思います。
明るい旋律や分かりやすい情景表現がなくても、
音の重さがわずかに変わった瞬間、
間の取り方がふっと緩んだ一小節に、
冬から春への境目は潜んでいます。
今回取り上げるのは、
ヴィヴァルディの協奏曲集《四季》「春」や
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第 5 番「春」、
シューマンの交響曲第 1 番「春」など、
春を描いた有名な作品ではありません。
いわゆる「春の名曲」とは少し趣の異なる音楽です。
紹介するのは10曲。
調性やテンポ、フレージング、構成、楽器の音色といった要素から、
私自身が春を感じる作品を選びました。
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☆1.ゲオルク・フィリップ・テレマン:《12のファンタジア》より
「第1番 イ長調(無伴奏フルート)」
春は、まず音ではなく息づかいとして始まります。
誰かが何かを宣言するわけでもなく、
ただ周りの空気がそれらしく変わり、
それに合わせて呼吸が軽くなったことに、身体が気づく。
この曲が感じさせるのは、季節の入口というより、
「もう冬ではない」と気づく瞬間です。
快活で華やかな冒頭。
フルート1本でありながら、和音の響きを暗示する技法。
後半は、軽快な舞曲風の楽章。
快いリズムの繰り返しの中で、
テレマンらしい旋律の美しさと技巧性が融合しています。
あたたく鮮明な旋律は、春の穏やかな風の中、
遠くからかすかな歌声が聞こえて来るようで素敵です。
・テレマン:無伴奏フルートのための12のファンタジア
バロック時代を代表する作曲家の一人であるドイツの作曲家テレマンが
1732年に作曲したフルート独奏曲「12のファンタジア」。
12曲のどれもが短い楽章の構成になっていて、
温かで鮮明な旋律にフルートの歌声が聞こえて来るような魅力的な曲集。
・上野星矢
東京都出身、15歳で初リサイタル。
19歳で「第8回ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール」優勝。
2012 年メジャー・レーベルよりデビュー。
国内外で数々の賞を受賞し、世界中で数々の演奏会を行い成功させ、
多くのファンと多大な称賛を得る日本を代表する若手フルート奏者の一人。

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☆2.ドメニコ・スカルラティ:ソナタ ホ長調 K.380
スカルラティの表現は、春の描写ではなく運動。
指が自然に転がり出した時に、季節が変わった事に気づく。
立ち上がる前の、無意識の一歩・・・その感覚がこの曲にはあります。
Kamil Tokarskiによるチェンバロ演奏で。
軽妙な出だしの旋律、トリルの使い方、ゆったりとしたリズム。
全体が明るい訳ではなく、ところどころに残る影が、
まだ去りきらない寒さを思わせます。
三寒四温・・・
徐々に春らしくなってきたと感じる。
チェンバロの乾いた音色も、また佳き。

・ドメニコ・スカルラティ(1685ー1757)
ナポリ派の巨匠アレッサンドロ・スカルラティの息子としてイタリアに生まれ、
ポルトガルの王室礼拝堂楽長、王女マリア・バルバラの音楽教師となり、
マリア・バルバラがスペインの皇太子フェルナンドに嫁ぐと、
従者の一人としてマドリードに移住し、同地で没した。
500曲を超えるチェンバロのための作品は他に類を見ない。
単一楽章で二部形式。
鍵盤楽器のあらゆる演奏技巧が盛り込まれていて、
明快な主題と時にスペインの民族音楽を感じさせる生き生きとしたリズム、
名人芸的なパッセージが随所にちりばめられている。
・スカルラティ:作品番号
ドメニコ・スカルラティの鍵盤ソナタは主に555曲あり、
ラルフ・カークパトリックが年代順に整理した
K.(カークパトリック)番号(1~555)が現代の標準として使われている。
かつては、アレッサンドロ・ロンゴによるロンゴ番号(L.)、
1967年に整理されたペステッリ番号(P.1~P.559)などが使われてきた。
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☆3.フランソワ・クープラン:《恋のサヨナキドリ》
ここで春は、自然から感情へと移ります。
鳥の声ではなく、恋してしまった心の独り言です。
ためらい、逡巡し、言い直す。
春には、そんな不安定さがあります。
フルートの音色、高音を多用した曲構成、チェンバロの伴奏。
その響きにはどこか軽やかさがあり、音が地面にとどまらず、
自然に上へ、遠くへと伸びていきます。
まだ確信はないけれど、もう後戻りはできない。
そんな心の揺れを、フルートが静かに映し出しているように思えます。
チェンバロ独奏版。
こちらは、風にふわりと乗ってしまうような軽さが印象的です。
その頼りなさが、春へ移る季節の感覚と重なります。

・恋のサヨナキドリ
フランソワ・クープランが作曲したチェンバロ(クラヴサン)曲集の
第14組曲第1曲。
サヨナキドリ(ナイチンゲール)の美しい歌声になぞらえ、
恋に悩む様や愛の喜びを表現した有名な曲。
・サヨナキドリ (小夜啼鳥)
別名ヨナキウグイス
西洋ウグイスとも言われるほど鳴き声の美しい鳥で、
ナイチンゲール(Nightingale)の名でも知られる。
ヨーロッパ中央部、南部、地中海沿岸からアフガニスタンまで分布する。
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☆4.ミッシャ・レヴィツキ:《The Enchanted Nymph》(魔法をかけられた妖精)
妖精は、人間でも自然でもない創造的存在。
この曲が描くのは、春そのものというより、
移ろいゆく途中の幻想かもしれません。
1928年の作品で、きらびやかで流麗なアルペジオが多く使われた、
幻想的で美しいサロン風の小品。
前奏から始まり、A-B-A’の三部形式に近い構成。
中間部では、優雅なワルツのリズムの中に、
レヴィツキらしい哀愁のある旋律が現れます。
Margarita Glebovによる演奏。
冒頭からきらめく音が広がり、春めいた空気を感じさせます。
ゆるやかに続く旋律には、
冬から春へと季節が移り変わっていく気配が漂っています。
途中、6/4拍子から3/4拍子へと変わる場面では、
雰囲気がふっと軽くなり、景色が明るく開けるように感じられます。
まるで春が本格的に訪れたことを、自然に知らせてくれるよう。
そして終盤、再び6/4拍子に戻るところでは、
満ちていた春が静かに次の季節へと向かい始めます。
舞い上がった花びらが、ゆっくりと散っていくような余韻を残しながら、
曲は穏やかに閉じられていきます。
・ミッシャ・レヴィツキ(1898ー1941)
ウクライナ出身のピアニストで作曲家。
ワルシャワでアレクサンデル・ミハウォフスキにピアノを師事し、
8歳でアントウェルペンにてデビューを果たす。
渡米して1906年から1911年までニューヨークの音楽芸術学校に学ぶ。
1916年にニューヨークで米国デビューを果たし、
間もなく米国に居を構える。
後に市民権を得てアメリカ合衆国に帰化。
没年の1941年まで世界中で演奏活動を行なった。

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☆5.エマニュエル・シャブリエ(Emmanuel Chabrier)
《10の絵画風小品》「牧歌 (Idylle)」
繊細で美しいメロディーが特徴的。
暗くなりそうでなりきらず、ゆっくりと明るさが滲んでくる曲調に、
牧歌的な穏やかさとぬくもりを感じます。
フランス音楽らしい洒落た音づかいも魅力的。
・『10の絵画風小品』 (Dix Pièces Pittoresques):
シャブリエの代表的なピアノ曲集。
この全10曲のうち、後述する『田園組曲』の元となった
4曲(「牧歌」「村の踊り」「森の中で」「スケルツォ=ヴァルス」)などが
含まれており、ピアノで演奏される田園的なニュアンスを持つ楽曲の
核となっている。
アレクサンドル・タローの演奏は、狭い幅のレンジで強弱をつけ、
ゆったりとした流れの中で、この曲のアンニュイな魅力をよく引き出していると
思います。
タローは、バッハの演奏では、大胆な解釈と繊細なタッチが素晴らしく、
大好きなピアニストです。
・『田園組曲』 (Suite Pastorale):
もともとは上記の『10の絵画風小品』からシャブリエ自身が4曲を選び、
管弦楽(オーケストラ)向けに編曲した組曲。
しかし、元がピアノ曲であるため、これら4曲をピアノ独奏で弾くことも
一般的。

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☆6.ピョートル・チャイコフスキー《四季》Op.37a -4月「松雪草」
ロシアの春は、まだ寒い。
雪の下から顔を出す花のように、この音楽は手放しでは喜ばない。
冬がまだわずかに残る早春の明るさが、静かににじんでいます。
アシュケナージによる演奏。
待ち侘びていた春の兆しが見られてきた故に、
影の部分と陽の部分が入り混じる曲想になっています。
構成上も、長調で書かれているのですが、中間部はニ短調で書かれていて、
哀愁を帯びながらも軽やかな上声が特徴的です。
なお、《四季》の各々の小品には、詩が引用されており、
聴き手が想像力をふくらませる一助となっています。
[ 待雪草(スノードロップ)―4月 ]
水色の 清らかな
待雪草の花
傍らに 透きとおる
消えかけの雪
過ぎ去りし悲しみによせて
最後の涙を流し
初めて夢見るのだ
また別の幸せを。 ― マイコフ

(チャイコフスキーの曲の表題は「松雪草」となっている。
スノードロップの日本名は「待雪草」。)
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☆7.ヨハネス・ブラームス:ワルツ Op.39-15 変イ長調
この曲にあるのは、季節の始まりというより、
日常に戻ってきた穏やかさとしての春です。
旋律は控えめで、感情を強く主張しません。
それでも重たさはなく、音の足取りは自然と軽くなっています。
冬を越えたあとに訪れる、何気ない安心感。
特別な出来事はないけれど、気づけば心が少し緩んでいる。
ブラームスのこの曲には、そんな大人の春の気配があります。
エリーヌ・グリモーによる演奏。
キラキラと輝く宝石のようなタッチ。
グリモーのこの演奏は、繊細さと情感に満ちた好演。
・エリーヌ・グリモー
フランスのエクサン・プロウァンス生まれ。
地元の音楽学校で音楽の手ほどきを受けた後、
マルセイユでピエール・バルビゼに師事。
13歳の時、パリ音楽院に全員一致の推薦で入学を許可され、
1985年ジャック・ルヴィエのクラスで一等賞を獲得。
1987年は、カンヌ国際音楽祭、
ラ・ロク・ダンテロン・ピアノ・フェスティヴァルヘの出演、
東京での初リサイタル、ダニエル・バレンボイムの招きを受けて
パリ管への出演と、グリモーのキャリアにとって一大転機となった。

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☆8.フェリックス・メンデルスゾーン《無言歌集》Op.38-6「デュエット」
春は、自然の季節であると同時に、
人と人との距離が変わる季節でもあります。
寒さで縮こまっていた関係が、
気づかないうちに、少しだけ開いていく。
「デュエット」が描いているのは、そんな瞬間です。
田部京子の演奏は、左右の旋律を明確に描きながらも、
誇張しすぎず、それに寄り添うようなアルペジオも美しい。
右手と左手が競わず、ゆったりと会話するように進みます。
閉じていたものが、少しずつ知らないうちに開いている。
そのささやかな変化の中に、春らしさがあるのだと思います。
・『無言歌集』
無言歌集は、メンデルスゾーンによって作曲された
一連のピアノ独奏のための作品集。
ドイツ語の原題では“Lieder ohne Worte”(言葉のない歌)
全部で48曲残された無言歌は、
当時のドイツ・ロマン派音楽の中で作曲されたピアノの性格的小品集の中でも、
最もよく知られた傑作の1つとなっている。
これらの曲は、曲想が優美で温かく、技巧的にも難しくないことから、
発表の当初から多くの人々に愛されてきた。
このメンデルスゾーンの『無言歌集』や
シューマンの初期ピアノ作品群の影響を受けて、
多くの作曲家たちがこの分野で種々の名作を書いてきた。
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☆9.グリーグ《ホルベアの時代から》「前奏曲」
バロック風の活気あるリズムと、
グリーグらしいロマン派の情緒が調和した軽快で華やかな曲。
原曲はピアノ独奏版で、のちにグリーグによる弦楽版が出版されました。
気温や体感としての春の気配と、花や木々の葉の芽吹く息吹を
期待を持って感じる・・・
そんな気持ちの高まりを音に表しているのが、この前奏曲です。
ベルリンフィル&カラヤンの演奏。
冒頭から鮮烈なインパクト。何より A メロ(0:21~)が素晴らしい!!
弦楽版では、透明感のある旋律が、疾走感を生む伴奏と結びつき、
前へ進もうとする推進力を生み出しています。
カラヤンならではの引き締まったテンポと、
ベルリン・フィルの艶やかな弦の響きが、
この曲にある高揚感を過不足なく引き出していて、
華やかでありながら軽薄にはなりません。
冬から春へ切り替わる、その一瞬のきらめきを音にしたような
「前奏曲」だと思います。
・『ホルベアの時代から』
原曲は1884年に書かれたピアノ独奏曲であるが、
今日ではグリーグ自身が1885年に編曲した弦楽合奏版の方が
広く知られている。
ホルベアとは「デンマーク文学の父」とも「北欧のモリエール」
とも呼ばれるルズヴィ・ホルベア(1684ー1754)のこと。
ピアノ版が軽いタッチの爽やかな印象を与えるのに対し、
弦楽合奏版は弦五部をベースにしているが、
グリーグの弦楽合奏曲にしばしば見られるように、
各パートがさらに細分化されたりソロが現れたりするなど、
音響的に豊かな作品に仕上げられている。

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☆10.フランク・ブリッジ《Spring Song》
これまで紹介した曲は、直接「春」を描いたものではありませんでしたが、
最後は、タイトルそのものが「春の歌」である一曲を。
1912年に作曲されたヴァイオリンとピアノのための小品集
「4つの短い小品」(4 Short Pieces, H.104)の第 2 曲。
この曲の春は、チェロの音色にあります。
高く舞い上がるような春ではなく、
地面に近いところで静かに感じられる春。
チェロは感情を前に押し出しすぎることなく、
ゆっくり息をするように歌います。
冬の冷たさをまだ少し残しながら、
もう戻らない季節を静かに受け入れているよう。
派手さはありませんが、ぬくもりは確かにあります。

・フランク・ブリッジ(Frank Bridge, 1879ー1941)
イギリスの作曲家、弦楽奏者、指揮者。
ホルストやヴォーン・ウィリアムズらによる民謡に依拠した作風が
20世紀初頭のイギリス楽壇の主流となる中にあって、
同時代のヨーロッパ大陸の新音楽
(フランス印象主義、ロシア象徴主義、ドイツ表現主義)
に触発されつつ、独自の前衛音楽を貫いた。
このため存命中は、ベンジャミン・ブリテンの恩師としてのみ名を残すも、
作曲家としては孤立し、ほとんど顧みられなかった。
だが1970年代に「前衛の衰退」が叫ばれる中、
ポスト・マーラー世代の忘れられた作曲家の一人として、
その独自性と先進性が再評価されるようになる。
* * * * * * * * * *
『春を感じるクラシック』
いかがだったでしょうか。
春らしさを感じさせる音楽は、もちろん他にもたくさんあります。
曲調や構成、音色、楽器の使い方――そうした要素の中に、
ふと季節の気配が立ち上がることがあります。
今回ご紹介した曲をプレイリストにして、
音楽を聴きながらお花見をしたり、
菜の花の咲く道をドライブしたり・・・
そんな時間のお供にしていただけたら嬉しいです。
カノンデンタルクリニック
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